こんにちは、Antoineです。
F1レースの表彰台、豪華客船の進水式、そして私たちのささやかな記念日…。 人生の輝かしい瞬間、なぜ私たちはシャンパンを開けるのでしょうか?
スパークリングワインなら他にもたくさんあるのに、なぜシャンパンだけが「勝利」や「祝福」の特別なシンボルになったのでしょう。
その答えは、あのきらびやかな泡の中に溶け込んだ、フランス王家の歴史に隠されています。 今日は、シャンパンが単なる飲み物から「勝利の酒」へと昇華した、壮大な物語を紐解いていきましょう。
すべては「王の戴冠式」から始まった
物語の舞台は、フランス・シャンパーニュ地方の中心都市、**ランス(Reims)**です。 この街の大聖堂(カテドラル)は、フランスにとって非常に特別な場所。西暦496年、フランク王国の初代国王クロヴィスが、ここで洗礼を受けたとされています。
以来、歴代のフランス国王がこのランス大聖堂で戴冠式を行うのが、神聖な伝統となりました。ジャンヌ・ダルクがシャルル7世を戴冠させたのも、この場所です。
そして、その輝かしい戴冠式の祝宴で振る舞われたのが、地元のワイン、つまりシャンパンの原型でした。 国王の誕生を祝う、神聖な儀式のワイン。 ここで、シャンパンと王権が結びつき、「王のワイン」としての圧倒的なブランドイメージが確立されたのです。
シャンパンが「外交の武器」になった日
「王のワイン」としての権威は、やがてフランスの国益を左右する「武器」となります。
その才能を最も発揮したのが、稀代の外交官タレーランでした。 ナポレオンが失脚した後、ヨーロッパの秩序を再編する「ウィーン会議」(1814年)で、敗戦国フランスは非常に不利な立場にありました。
しかし、タレーランは動じません。彼は毎晩のように美食会を開き、各国の代表たちを最高級のフランス料理と、最高のワイン、そして珠玉のシャンパンで歓待しました。 巧みな話術と、舌を溶かすような美食、そして輝かしいシャンパンの泡の前で、各国の要人たちは心を解きほぐし、フランスへの要求を和らげていったと言われています。
タレーランはこう言いました。「最高のディナーとシャンパンを用意しなさい。そうすれば、外交は自然と上手くいく」。 シャンパンが、国の運命すら左右する、強力なソフトパワーになった瞬間でした。
さらに、マダム・クリコのようなやり手の経営者も登場します。彼女は「ヴーヴ・クリコ」の品質を高め、ロシア皇帝をはじめヨーロッパ中の宮廷に売り込み、シャンパンを国際的なセレブレーションの飲み物として定着させたのです。
日本文化との比較 - フランスの「世俗的なお神酒」
このシャンパンの特別な役割について、京都の友人と話していた時、彼は面白いことを言いました。 「それは、日本の皇室の儀式で使われる『お神酒(おみき)』のようだね」と。
なるほど、と思いました。 お神酒は、単なる日本酒ではありません。神様への捧げものであり、儀式の神聖さと権威を高める、特別な意味を持つ飲み物です。
シャンパンも同じです。 フランス国王の戴冠式という神聖な儀式から始まり、国の威信をかけた外交の舞台でその力を発揮した。
そう考えると、シャンパンはフランスにとって、いわば**「世俗的なお神酒」**と言えるかもしれませんね。
結論 - その泡は、王たちの戴冠を祝う喝采
「なぜシャンパンは『勝利の酒』になったのか?」
その答えは、 「フランス国王の戴冠式で振る舞われる神聖な『王のワイン』として生まれ、国の威信をかけた外交の武器となり、ヨーロッパ中の宮廷で祝福のシンボルとして定着したから」 でした。
ですから、私たちがシャンパンのコルクを抜くときの「ポン!」という音は、単なる炭酸ガスの音ではありません。 それは、何世紀にもわたるフランス王たちの戴冠を祝う人々の喝采であり、勝利を祝うファンファーレの響きなのです。
次にシャンパンを開けるときは、ぜひその歴史に思いを馳せてみてください。 グラスの中で立ち上る一筋の泡が、歴代の王たちが築いた栄光の物語に見えてくるはずです。
À votre santé! (あなたの健康に乾杯!)
Antoine Renaud(アントワーヌ・ルノー) フランス・リヨン出身のソムリエ 京都在住3年目、日本文化を学び中
